世界の偉人についてのブログ

偉人に関する話題を取り上げていきます!!!

偉人たちの本を繰り返し読んだ過去

両親が毎日忙しく働いていたために、ろくに遊びにも連れて行ってもらえず構ってももらえなかった私は、自然と本の世界にのめり込んでいきました。ファンタジーものや冒険ものなどのさまざまなジャンルの本を読みましたが、中でもとくに興味津々で読んだのが、過去の偉人について書かれた本です。
偉人たちは皆がそれぞれに自分たちの信念を貫くために努力し、その結果、現在に伝わるような成功を手にしています。彼らの遺した成果や結果は現代を生きる私たちの生活を支えてくれており、彼らがいなければ無かったものです。そう考えると、彼らのことをもっともっと知りたくなり、小学校・中学校・高校と、常に偉人について書かれた本を持ち歩いては、繰り返し読み続けました。
沢山の偉人の中でもとくに私が好きなのが、アルベルト・アインシュタインです。よく使用されるアインシュタインの写真が舌を出しているもののせいか、よく変わり者という表現を使われたりもしますが、私は彼のことを心の底から尊敬しています。彼の遺した言葉の数々が、幼少期を寂しい気持ちで過ごした私を支え、育ててくれました。彼の言葉の中に「空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。」というものがあり、私はその言葉が大好きです。
本を読むことが好きだったので、勉強も同じだけ好きだった私は、学生の内に精一杯勉強に励みました。毎日毎日とにかく必死で勉強し、時には一日2時間ほどしか睡眠をとらなかったり、寝ずに十日間もの間ずっと勉強し続けたりもしました。そんな時にふと、知識には限りがあって、頭で考えているだけでは物事を成し遂げることはできないのではないかと気が付いたのです。一方、想像というのは無限の可能性です。過去に存在した偉人達は皆、知識から何かを発明・発見したのではなく、想像力から何かを思い描き、それを実現してきました。まず、想像力があったからこそ、実現したり立証する行動に繋がり、底意知識が加わったことで確かなものになったのです。このことが分かった時、私の身体には電撃のような衝撃が走りました。
それからは、もう一度新たな角度から偉人たちについて調べるようになりました。すると、彼らの成功の原点には必ずまず想像や妄想があることが分かりました。アインシュタインの遺してくれた言葉が今の私に新たな気付きを与え、それにより私のものの見方や捉え方が大きく変わることとなりました。
すべては想像からはじまる。想像が無ければ何も始まらないのだと分かってからは、常に自分にとって「こうだったらいいな」ということを想像し、それを実現するための行動を起こしています。

偉人の歴史を知る事はどのような意味があるのか

私たち人類が文明を築きながら社会を構築してきた長い歴史の中では、世界中に数多くの偉人と呼ばれる人々を生み出してきました。偉人とはすなわち、歴史にその名前と功績が遺るような人物であり、並外れて優れた才能を持っていた人物のことを示します。「偉」という字には「滅多にないほどに優れている」という意味を示す感じであることからも、その名前の偉大さが分かります。
長い歴史の中で国境を越えて語り継がれている多くの偉人には、その偉大さが生前の時から評価されて多大な功績を認められている人もたくさんいますが、その人物が亡くなった後に、時代の経過と共にその素晴らしさや功績がたたえられていく人も少なくありません。その人物が生きている時代には、世間の常識や考え方を覆すような主張を唱えて咎められたりする場合もあるのです。また、多くの逆境や困難にも負けずに立ち向かって何かしらの光を見いだしてきた多くの人々もも現世まで語り継がれています。
数多くの偉人に関しては、その人物の一生涯の歴史を通して、その人物の人となりや社会に残した功績や道筋を学ぶことができます。世界中に存在してきた数多くの偉大な人々の伝記は、書物などになり世界中で目にすることができます。古い歴史上の偉大な人物であれば、紀元前まで遡ることもできます。それでは、これらの偉大な人々の歴史を知る事にはどのような意味があるのでしょうか。
後世に何かしらの功績を残すような偉大な人物は、元々の持って生まれた特異まれなる才能がある場合も少なくありません。子どもの頃からその能力を発揮したり、成長過程で大きく開花する場合もあります。しかしながら、例え大きな才能があったとしても何の苦労もなく自分の目指す場所にたどり着けられる人はいません。
偉大な人々の生きた歴史を知る事は、その人の苦労の道程を知る事でもあります。困難にぶつかったときにどのように乗り越えてきたのか、どのような考えや方法で信念を貫いてきたのかを、現世に残っているその人物の功績を今の時代で感じながら知る事ができます。
例え時代が変わっても過去の出来事の一つの記録と言うだけではないのです。過去から現代、未来へと続く歴史は数多くの人々によって紡がれてきた人類の歩みでもあり、その歴史は現代社会にも当然通じる普遍的な考えであったり、事実でもあるのです。
偉人の歴史を知る事は、私たち人間が生きていく上で必要な大切なことをそれぞれの時代に合わせて教えてくれます。それは人としての考え方であったり、周囲の人々の幸せを願う気持ちであったり、普遍的な人間の思い出あったり、偉大な発明だったりなど様々です。それらの功績の積み重ねが現代社会を築く礎になり、未来へと繋がっているのです。

偉人を扱ったテレビ番組はけっこう面白い

現在の地上波のテレビでは、お笑いのような軽く楽しめるバラエティー番組や、ちょっとした知識を得ることができるクイズ番組が数多く放映されていて、見ごたえのある教養番組や報道番組が少なくなったと嘆いている人もいるでしょう。確かにそういった番組は、仕事などで疲れて帰った時に見るには適さないでしょうから、手軽に見られることが魅力である地上波のテレビにはあまり向いてないと言えるかも知れません。しかし現在では衛星放送やケーブルテレビを利用すると、大変多くのチャンネルを見ることができるようになっていて、その中には地上波よりも硬めの番組を放映しているところもありますし、またインターネット上のオンデマンドサービスを利用すれば、昔放映された番組を見ることも可能となっています。教養番組のような見ごたえのある番組が見たいのであれば、そういったメディアにまで手を伸ばすことにより、その望みをかなえることは不可能ではないと言えるでしょう。またこれまでは教養番組に関心がなかったという人も、機会があれば一度見てみると、新しい発見ができて充実した時間がすごせるかもしれません。
教養番組にも色々な種類がありますが、中でも歴史的な偉人の生きざまを取り扱った番組は人気があります。偉人の生きざまというと、どうしても教訓を得ようとしたり、感銘を受けようとしたりといったように、畏まった態度で見るようなイメージを持ってしまうかも知れませんが、一つの人間ドラマととらえてエンターテイメント感覚で見てみると、けっこう面白く見られるのではないでしょうか。番組で取り扱う人によって、また取り上げる番組のテイストによって、その面白さの方向性は色々と変わってくるでしょうが、少なくとも好奇心は満たしてくれるはずです。
今では偉人と呼ばれるようになった人でも、子ども時代はかなりやんちゃだったり、学生時代は不真面目に生きていたりといったことも少なくないので、彼らを扱った番組を見てみると、意外と親近感を覚えることがあります。それによって、彼らも自分たちとあまりにかけ離れた聖者のような人物ではなく、人間味のある存在だというイメージが持てることも珍しくないでしょう。逆にあまりにも素晴らしい人生を生きていたことが番組の中で強調されると、すごい人がいたものだと素直に感心したり、自分にはそこまですることは絶対にできないと感じたりといったこともあります。さらに意外に駄目な部分があったことが紹介されると、あまり知りたくなかったと複雑な気分になることがありますが、それもまた興味深い部分だと考えられます。

全ては実話から

子供の頃、漫画を好きで好きで読んでいると母親から「あんたいつまで遊んでるの!?勉強しなさい」と怒られたが、小説を読んでいると「小説読んでるの?偉い偉い」と褒められた。

同じ読み物なのに何故こんなにも反応が違うのかわからなかった。

ただそこから楽しみながら、褒められる「小説」にハマっていったことが、自分の小説家を志すキッカケになったことは間違いない。

 

そして沢山の小説を読んでいて、面白い小説の共通点をいくつか見つけた。

実話が元になっているものが多いと言うこと。

 

特に感じたのがサスペンス物なのですが、我々凡人脳みそでは思いもつかない方法でサイコパスは人を殺めて、更に同期が想像付かないことも多い・・・

コレは小説家がどれだけ眠らず何年考えても思いつきません・・・

それは彼らサイコパスとの思考や快楽の感じ方が全く違うからです。

なので小説家は、困ったら事件を追うことが多いです。

 

その中で今回自分が注目しているのは、「出光のお家騒動」です。

これは現在の経営陣が、大株主の創業家の意見を無視し、強行突破で昭和シェルとの合併を企んでいることです。

出光自体は創業者が以前「海賊と呼ばれた男」のモデルとして描かれた事がありました。

しかし今回のお家騒動は、美談ではなくドロドロとしたお話しのモデルにできそうな感じです!

現・経営陣のやり方が汚すぎてそのまま小説にできそうです!

創業家の持ち株を、公募増資で減らして発言権を無くそうとしているのです!

そしてそんな無茶が裁判で正式に認められるということに・・・

こんなことが許されたら、今後株主の混乱が考えられる・・・

 

このまま結末までちゃんと見ていたいです。

このまま創業家が引き下がるのか、それともまだまだ戦うのか見ものです!

 

また公募増資した分を創業家側が買えば立場は再び創業家のほうが上になるとは思うのですが、それをどうするのか!?

偉人を扱った映画を見ると面白い

当然のことではありますが、私たちが生きている時代は、過去を生きた人たちが築いた歴史があるからこそ、それに続いて存在しているものです。特に何か大きなことを成し遂げるなどして、現在では偉人と呼ばれている人たちの存在は、その歴史を語る上で大きな意味を持っていると言えるでしょう。なのでそういった人たちが生きていた頃の歴史を知るということは、多くの人にとって興味深いものになり得るものではありますが、伝記の本を購入して読んだり、テレビの教養番組を見たりするといったやり方は、なかなかハードルが高いものだと感じる人が少なくないでしょう。偉大なことを成し遂げた人の話は、どうしても硬い内容になりがちですから、文字だけの伝記を読むとなると退屈してしまったり、淡々と事実ばかりをつなげて作られることの多い教養番組では、見ていて眠くなってしまったりといった恐れがあるのです。偉人の生きざまには関心があるけれど、小難しい内容の本や番組では最後まで見続けられる自信がないという場合には、そういった人たちを主人公とした映画、いわゆる伝記映画を見るというやり方が考えられます。
実は私自身も、伝記の本を読んだり教養番組を見たりするのはあまり好きではないのですが、映画はかなり好きな方なので、伝記映画を何本も鑑賞したことがあります。それらを見ると、何と素晴らしい人がいんだといったような感銘を受けたり、あの有名な人でもそんな苦労があったんだと意外な発見があったり、あんな偉大な人でも結構人間くさいところがあったのかと驚いたりと、その作品によって受けた印象は様々でしたが、そのほとんどを面白く見ることができました。
偉人を扱った伝記映画の魅力としてまず挙げられるのは、観客に楽しんでもらえることをある程度意識して作っているということで、退屈することが少ないという点です。そのために実際にはなかった描写が織り交ぜられることがないわけではないのですが、全くあってはならないほどの改変までは行われないでしょうから、大きな問題とはならないはずです。またある程度顔の知られた俳優が演じることが多いため、実際の偉人とのイメージの違いに戸惑うことがあるかも知れませんが、彼らの演技によってその人物に感情移入しやすくなり、元々抱いていたイメージよりもさらに魅力的な人物に思えてくることも少なくありません。歴史はあまり好きではないという人でも、ストーリーがしっかりとした人間ドラマという感覚で見られるため、とっつきやすいことは間違いないと言えるのです。

飛鳥時代の偉人、聖徳太子

日本の有名な偉人に聖徳太子がいます。飛鳥時代の人物で、紀元574年に生まれ、622年に没しました。「聖徳太子」という名前は諡号(死後に与えられた名前)で、本来の名前は厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)です。おばの推古天皇を補佐する摂政という地位に19歳の若さで就き、蘇我馬子と共に朝廷を支えました。
聖徳太子の功績の1つが遣隋使の派遣です。大陸の進んだ文化を取り入れるため、複数回の派遣が行われました。これにより先進的な政治の仕組みを学び、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定しました。これらには、天皇を中心とした中央集権国家を確立する目的がありました。さらに、朝廷内で、また臣民同士の争いをなくすため、仏教を取り入れました。この点は、十七条憲法の第1条を「和を以て貴しと為す」とした点にも示されています。しかし、このような形で仏教を政治の中心に置くというのは、当時の朝廷内にあってはとても考えられないアイデアでした。というのも、日本には古来からの宗教として「神道」がありました。これは天皇ならびに朝廷にとってはかなり重要な意味を持ちました。天皇は「神の子孫」である、したがって「天皇は神である」という教えの後ろ盾となるのがこの神道だったからです。もちろん、聖徳太子神道を軽んじていたわけではなく、周囲の反発をうまくかわしながら仏教を効果的に利用していったという点で、まさに偉人としての才能を発揮したと言えます。
聖徳太子仏教を広めるため、各地に寺院を建立しました。特に有名なのは、日本最古の木造建築物としても知られる「法隆寺」です。現在の奈良県生駒郡斑鳩町にあるお寺で、「斑鳩寺」とも称されます。紀元607年、推古天皇と共に建立したと伝わります。
さて、聖徳太子の肖像が日本の紙幣に用いられたことをご存じの人も多いでしょう。その肖像が紙幣に初めて登場したのは1930年(昭和5年)のことで、百円紙幣に使用されました。その後、千円、五千円、そして一万円の紙幣に使用されました。合計7回もの登場です。これらに使用された肖像は、聖徳太子を描いた最古のものとされています。
こうして、聖徳太子は歴史的に重要な意味を持つ様々な出来事に深くかかわってきました。まさに「偉人」と呼ばれるにふさわしい人物です。しかし、近年になって、これだけの偉業を一人で成し遂げたとは考えにくい、とか、聖徳太子は実在しておらずのちにその人物像が作り上げられたに過ぎないのではないか、といった考えも出ています。紙幣の肖像も、聖徳太子の死後100年以上のもので、彼を実際に描いたものではないとする説が浮上しています。とはいえ、「これだけのことを成し遂げた人物が朝廷にいた」ということを人々に印象付けることは、天皇家および朝廷の権威を確固たるものとする上できわめて大きな意味を持ったに違いありません。

今の時代は偉人は生まれないのか

現代では偉人と呼ばれるような人が、出にくい世の中になっているのかなと感じる部分があります。
科学が発達して個人で何かを生み出すということが難しいものになっていますから、そのような点でも歴史に名を刻むような人は出てこないのかなと思ってしまいます。
飛行機のような画期的な発明品も抗生物質のような医療を大きく進歩させる発見というのも、個人で編み出すにはすでに出尽くしてしまっている感があるような気がします。
画期的な発明や発見自体は現代でもたくさんありますし、むしろ科学が進歩した分だけ今まで作ることができなかったもの見つけることができなかったものが、作ることができたり、見つけることができたりするようになったわけですがそれらは個人ではなくチームによって生み出されることになりますかから、一人の人間が大発明、大発見をするという機会は少なくなっているのではないでしょうか。

何時の時代であっても天才はそのようなことを物ともせずに、偉大な功績を残したりするわけですが現代は求められるレベルが大きすぎて、個人で名を残すのは少し難しいような気がします。
しかし、それだけに今の時代に名を残すことができるようなことをした人がいれば、それはそれで凄いことだなと感じるので歴史的な偉人を生きているうちに見てみたいと思います。

このように考えてはいるのですが、もしかすると気付いていないだけで後になって振り返ってみると、世界を大きく変えるきっかけとなった人が今の時代にもいるのではないかと思うときはあります。
時々何かを開発、発見した時に個人の名前が出たりしますがその時は軽く流してしまうものの、その中に何十年、何百年先になって人類にとって非常に意味のある発見で文明の進歩に大きく役立った人が知らないだけで今もいるのではという気がするのです。
センセーショナルさに欠けるだけであって、庶民にはわかりづらくても十分に偉人と呼ぶのにふさわしい人はいまでも生まれているのかもしれません。
そう考えると実は偉大な人と一緒の時代を生きているのに、それに気づくことができないというのは不幸だなと言う気にもなってしまうので、偉大なことを偉大だとわかるだけの教養が欲しいと感じます。
何百年先になっても名前が残るような偉人を目の当たりにするということができれば、今の時代に生きていてよかったという気持ちになることができますから、偉人を見落とさないようにしたいです。