カジノの発祥
こんにちは。
偉人を紹介しているこのブログですが、日本のIR誘致に関連して、そういえばカジノを作った人は誰なのか?という疑問を抱きました。
そこで調べてみたのですが、結論から言うとわかりませんでした。
カジノの発祥はヨーロッパらしいのですが、ルイ15世時代のフランスにおいて上流階級向けや庶民向けの賭博場がのちのカジノになったそうです。
そういえばマリー・アントワネットも賭場に興じていたというエピソードがありましたね。500年くらいは歴史があるということでしょうか意外と長いです。
要はギャンブルなのでマイナスイメージを持つ人は多いですが、華やかなイメージもあります。個人的には、お金を持っている人が趣味の範囲で楽しむのならいいんじゃないかなと思っています。
そして、日本でのIR誘致です。日本にもカジノを、という法案ですが、どうなるのでしょうね。
やはり賛否両論あるみたいですし、下記のような政治家の逮捕などもあって一筋縄ではいかない気がします。
https://www.sankei.com/affairs/news/200114/afr2001140024-n1.html
上手くルールを敷いて統制すれば経済が回るようになるとも思いますが…果たして。上流階級の社交場のようになれば、治安の低下や依存症は防げるのではないでしょうか。
トーマス・エジソンの失敗談
言わずと知れた発明王ではありますが、そんなトーマス・エジソンも成功だけの人生ではなく多くの失敗も経験しています。
その結果として、上記にあるような名言が生まれたのではないでしょうか。
彼は、小学校を3ヶ月で中退しています。
かなりの知りたがり屋で、1+1=2について納得することができなかったと言います。
小学校の授業では、リンゴやみかんを使って籠の中に入れていくというような説明だった気がしますが、これがトーマス・エジソンになると、リンゴではなく、粘土だった場合で考えてしまいます。
粘土は、2つに分かれていても、一つにまとめることができるため、なぜ1ではなく2になるのか?と質問していたようです。
他にも、「A」はなぜ「エー」と読み「ピー」と読まないのかという見方をしますし、ガチョウを自分でふ化させてみようとしたり。
かなりの好奇心旺盛ですよね。
トーマス・エジソンのような子どもがいたら、それは先生も苦労したことでしょう。
小学校を中退した後は、人間が空を飛べるようになる薬を作り友達の飲ませて大騒ぎにもなりました。
またある時は、遊園地の像に交流電気を流し、そのショックで処刑するなど、突拍子もない考え方の持ち主でもありました。
しかし、こうした考え方やモノの見方をするトーマス・エジソンだったからこそ、素晴らしい発明をして発明王を称されているのかもしれませんね。
他にも多くのエピソードがあるので、調べてみるのもいいでしょう。
地方創生の成功事例とは?
中にはうまくいかなかったものもありますが、成功を収めたものも少なくありません。
今回は、実際に成功した事例をご紹介しましょう。
エーゼロ株式会社は、ローカルなベンチャー企業を支援するための事業を行い、地方の起業家を育ててるという取り組みを行っています。
その取り組みでは、西粟倉村役場と連携することによって地方の起業家を育てようとしています。
起業家を育成することで、雇用の創出や人材の発掘などを行える場が作れると考えているのです。
西粟倉村では、森林の所有者や村役場、森林組合が連携し、生産から販売までトータルで考えた森林管理や森林の新たな使い方を生み出すという仕組みが実現しました。
霧島酒造株式会社は、自治体と連携することでふるさと納税を活用したPRを実現しています。
黒霧島や白霧島などの本格芋焼酎を手掛けている霧島酒造株式会社は、「地域に根差し、地域とともに発展する」という経営方針に基づいた事業を行っています。
そんな「地域に根差し、地域とともに発展する」は、自治体と連携してふるさと納税を利用したPRを行っているのです。
ふるさと納税の謝礼品に芋焼酎を送ることで、平成27年のふるさと納税寄付金額は全国1位になったと言います。
あなたが暮らしている地域でもこのような取り組みをしていないか調べてみると面白いのでは?
1000年間の偉人を紹介している雑誌
世界でも多くの功績を残していった偉人は数多くいます。
日本の中でも偉人はもちろんいますが、この1000年の間で重要な功績や実績を残した人をご存じでしょうか?
そうです、これは1999年にTHE LIFE MILLENNIUMという雑誌で掲載された世界の偉人集です。
ここには1000年の間の偉人100人を紹介していました。
1000年前の偉人ももちろん取り上げていましたが、やはり近年の偉人が多くメインで取り上げられていました。
ちなみに日本人では葛飾北斎が掲載されていたのですが、なんと日本人では葛飾北斎1人のみの掲載となっていました。
浮世絵は世界でも共通して有名になりつつあるものなのでしょうね。
数多くの世界の偉人がいる中で唯一ではありますが、日本人とその日本独自の浮世絵が評価されたという事実は非常にすごいことなのではないかなと思いました。
偉人となると何かを成し遂げたり、開発・発明したり、政治的に何か重要なアクションを起こしていたりする人が多いのですが、こうして芸術面で世界から評価をされることは個人的にはとても誇らしく思います。
雑誌に掲載されていた100人の偉人たちの功績は、それぞれ政治から科学、芸術分野まで様々となっています。
年代によっても近年になればなるほど科学や政治が増えてくるのですが、それ以前となると宗教や思想、武力などが多い印象がありました。
年代によっても偉人とされる人がこんなにも違ってくるのかと考えると、また面白いなと感じられると思います。
もちろん国によっても何かが変わるきっかけになっているものも多くあるので、気になれば一度調べてみると深く知ることができると思いますよ。
アインシュタインの意外な経歴
確かにノーベル賞を受賞していることから、才能は幼いころからあったでしょう。
しかし、アインシュタインは5歳になるまで話すことすらうまくできなかったと言います。
学校に通うようになってもなかなか周りについていくことができず、苦痛を感じていたそうです。
また、ドイツのミュンヘンにある公立学校の厳格な校風に馴染むことができず、中学校や高校の役割を持つギムナジウムでも規制に縛られた雰囲気を嫌になってしまったのです。
そして、家族が暮らしているイタリアへと逃げていきました。
その後は、スイスのチューリッヒ蓮舫工科大学を受験したのですが、まじめに勉強しなかったため、当たり前ですが合格はできませんでした。
不合格ではありましたが、数学と物理は受験生で最高得点を出したため、ギムナジウムで学びなおすことを条件に特例で合格扱いになったのはすごいことだと言えるでしょう。
そんな経歴を持っているアインシュタインは、いくらすごいことをやってのけたとしても、記憶することは苦手分野のままでした。
インタビューの中で、光速度の数値を応えられないことを記者から追及された時に、「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」と答えられたのはアインシュタインだからこそだと言えるでしょう。
ローカル・アベノミクスである地方創生について
ローカル・アベノミクスという言葉をご存じでしょうか?
これは第二次安倍政権で掲げられた地方創生を意味しています。
現在、都心部はどんどん発展していき人口も増えていますが、一方で地方では急激な人口減少や少子高齢化が顕著に現れているのでこのままでは地域の存続自体が難しくなると考えられているのです。
あるデータによれば、2040年までには約900もの市町村が消滅してしまう可能性が出てしまっています。
この数字は全国で1800ある市町村の半分に相当する数となっているのです。
更には2050年には日本国内の人口も1億人を切ってしまう可能性が考えられています。
これを解決するためにローカル・アベノミクス、地方創生が掲げられたのです。
この取り組みは2014年9月にあった第二次安倍内閣の発足と同日に「まち・ひと・しごと創生本部」が置かれてから始まりました。
地方創生で真っ先に思い浮かべるのは「ふるさと納税」ではないでしょうか?
ふるさと納税は地方の税収を補填するための施策となっているのですが、これでわかることは人口減少による地方の大きな問題として税収の減少が考えられます。
税収の減少を食い止めることで地方が活性化するということではありませんが、活性化させるために必要なのは税収だということになるのではないでしょうか。
各自治体で様々なふるさと納税の取り組みを行っているのですが、それぞれで取り組み方にも違いがあるので紹介しきれない部分も大きくあると思います。
未来の日本のためにも地方創生についてしっかり個人個人でも考えていかなければならないと感じました。
渋沢栄一
当然、紙幣の顔になる方々なので残した功績も素晴らしいものばかりなのですが、特に今回注目していきたいのが新1万円札の顔となることが決定した渋沢栄一です。
元々、渋沢栄一は米や麦、野菜の生産だけでなく養蚕や染料の製造販売までも手掛ける豪農出身です。
14歳頃から藍葉の仕入れを単身で行うようにもなったのですが、この時の経験がその後のヨーロッパの経済システムを吸収しやすいベースを作ったとされています。
攘夷の思想を持っており、一時は倒幕を計画したこともある渋沢栄一ですが、一橋家家臣が推薦したことにより一橋慶喜に仕えることとなりました。
その後、一橋慶喜が将軍となった際には幕臣となり、慶喜の弟が出席するパリ万国博覧会の随員として共にフランスへ向かうことに。
倒幕し新政府となってからは帰国を命じられ、日本で商法会所を設立しましたが大隈重信に説得されて大蔵省に入省することとなりました。
官僚時代には銀行の設立を指導をしており、退官後は指導していた第一国立銀行の頭取に就任しました。
それ以降、様々な企業の設立、経営に関わっていくことになります。
日本赤十字社や養育院、東京慈恵会の設立にも携わるなど社会活動にも積極的に行っていたり、商業教育にも力を注ぎ数多くの大学の設立にも協力を惜しみませんでした。
渋沢栄一は日本経済界に大きな影響を与えた人物でもあり、日本の福祉・教育分野にも尽力した人物なのです。